当事者の矛盾する意思
- ひきこもり雑感(「憂鬱な喫茶店(支店)」2004-12-29)のコメント欄より
- http://d.hatena.ne.jp/./cafe_noir/20041229#c
# about-h 『ひきこもりの大多数は現在の自分の状況が良くないと認識していつつも、外に出たくないと思っているのだから、本人に統一的な意志があるということにやはり疑問を持たざるを得ない。外部にいる人間にとってはどちらを優先すれば良いのかという選択がまずここであります。外部の人間はひきこもりはダメだと思っていることが多いので、出ろ出ろと言ってしまう。これが暴力的に現れているのが長田百合子。斎藤は出来る範囲で少しずつ外に出ようという立場なので、本人の出たくないという気持ちに妥協をさせつつ、今の状況じゃダメだという本人の希望に沿ってる形になる。当事者の意思に矛盾するものが混在しているのが問題をややこしくしているのだと思います。』
このコメントだけでなくご本人のダイアリーでも id:about-h さんは議論の整理がうまいなぁとおもう。
研究室引き篭もり、大学院生、働く意義のつかめない世代
- 研究室引き篭もり(ある大学院生の日記、2004-12-22)
- http://naoki-taki.cocolog-nifty.com/hogehoge/2004/12/post_38.html
せっかくだからここではニート予備軍である研究室引き籠もりについて。最近増えているらしい、研究室に来ない修士、学部4年の学生が。結局、何で来ない、来れないのかを考えてみると価値観の違うコミュニティに適応できないのせいなのかな。
引用元にある「研究室引き篭もり」とは、研究室に閉じこもって朝から晩まで実験や研究をしている状態ではなくて、それとはまったく逆の研究室にやってこない学生のことを指している。
また(「研究室引き篭もり」であろうがなかろうが?)大学院生なんてひきこもりと同じ状況だという意見もある。
- 入院、自殺、ジェノサイド、研究者へのケモノミチ(slowlearner blog、2004-12-16)
- http://slowlearner.oops.jp/blog/archives/2004/12/post_40.html
最近、ひきこもりに関して、話をする機会が増えた。そのとき、マクラは、院生なんて社会参加もできず、就職もできず、ひきこもりと同じ状況だという言い回し。ひきこもりも院生も、将来の展望がなく、それは何よりも社会との接点が欠けている現状に行き着く。もちろん、違う点があるのは百も承知だが、こっちは半ばまじめに考える。
つぎの記事をみると、大学院生がひきこもりやニートになる可能性を大学側も認識していることがわかる。
- 「働くということ 第5部 世代の壁(2)」 ─ 増殖する「後期子供」(『日本経済新聞』2003年11月4日からの引用記事)
- http://sanpo19.jp/news_paper/conditions/co0225.htm
「子供に大学院進学や留学を安易に勧めるのは絶対にやめてほしい」。中大キャリア支援課長の野口哲朗(50)は毎秋、学生の父母向け就職懇談会でクギを刺す。「経済力があり、ものわかりのいい親が増えてきた」。モラトリアム進学や留学は働く意義のつかめない世代の増殖を招く。
この日本経済新聞の連載「働くということ」は、連載記事をまとめたものが1冊の本になっている。
- 作者: 日本経済新聞社
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
- 発売日: 2004/09/18
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留年、学歴、コネ
- 留年サークルの存在(「留年者の日々」、2004-12-12)
- http://blog.livedoor.jp/hook1214/archives/10664377.html
もう一つ、この手のサイトやブログを作っている人間は、なぜか自身が高学歴であることが多い。
京大で多留してる、東大目指してる、早稲田8留、僕は名大で、留年天国も国立大学だ。
知らず知らずのうちに安っぽいプライドでも持ってしまっているのだろうか?
確かに僕自身も他人に頼み事をするのが苦手だ。
何かと全て自分の力で片付けようと考える傾向にある。
ネットやブログはある種のタイプのひとには居心地がいいのだろうなあとおもう。
学歴と留年の関係については、本人のパーソナリティだけでなく、いわゆる高学歴の子をもつ親の意識というのも気になる(高学歴の大学に入学した子をもつ親は子の留年を容認する傾向があるのかどうか、など)。
本人のパーソナリティについては、たとえば一昔前の宮台真司だったらつぎのような分析をする。
- 特集:シンポジウム「高校生は今!」(神奈川県高等学校教育会館・教育研究所誌『ねざす』21号、1998年4月発行)
- http://www.edu-kana.com/kenkyu/nezasu/no21/sinpo3.html
つまり東大や早稲田や慶応にいる、あるいは都立大にいるということは一生懸命受験勉強やってきたということの証であるわけです。逆に言えば、コストをかけている以上機会費用が生じてるんですね。受験勉強に使う時間を別のことに使っていればできたはずのことを失っているわけです。
(中略)
ところが、そのコストをかけていい大学に入って来た連中の中には、まさにそこで失ってしまったものが多いという意識を持った人が大勢おります。それでもバブル崩壊まではですね、「いや、コストをかけた分の実りは将来返ってくる」とか思えたわけでありますが、それがなくなりました。つまり、失楽園オヤジと同じ状況なんですね。あると思ったものがないということに気が付いてきたときに、非常に不安が増大してまして、僕が非常勤やったりしますと、もうすぐに、質問といっても結局身の上相談なんですね。「宮台さんのおっしゃったように、僕は地方県立高出身で、いろんなものを犠牲にしてきましたが、僕はこれからどうやって生きていったらいいんでしょう」っていう、いきなりそこに話が落ちるんですね。
留年者はいろんな悩みをかかえているが、やはり大学に学籍があるということはなんらかの意味で精神的なよりどころになっているとおもう。また、どこにも所属する場所がない者よりは、周囲の人間からの協力を得やすい状況にあるひとがおおいようにもおもう。
- ちょっと毒を吐いてみる(Dumb、2004-12-07)
- http://dumb.s54.xrea.com/impressions/20041207_1113.html
「読者家のひきこもりの人は良い抜け出し方をする」に対して、信念を持ってひきこもってるからだなんて言ったけど、当然インテリ層は学歴があったり、コネがあったりするから、就職し易かったり、良い仕事(良い仕事って何とか聞かないでね)に付けたりするから良い抜け方をしたりするんだろうな。*1
コネや人間関係があるかどうかによって人生が左右されるのは確かだとおもう。とくに自分の力では身動きがとれなくなって社会から退却してしまっている当事者の場合、周囲の人間から協力が得られない状況だと「抜け出し」はいっそう難しくなるのではないだろうか。
「誰でも、自分でも……」という想像力はどこまで通用するのだろう
- 「誰でも、自分でも、加害者になりうる」のか(児童小銃、2005-01-02)
- http://d.hatena.ne.jp/rna/20050102#p3
もちろん「誰でも、自分でも…」はリベラリズムの大原則(入れ替え可能性)ですが、観念的に納得するだけでは、現実の利害や素朴な道徳感情には逆らえないのではないかと。もちろんリベラルじゃない人は最初から納得しないし。
性暴力の加害者になるかもしれない(なったかもしれない)という想像力についての考察。引用元では、リベラリズムに立脚する者の葛藤についてかなりつっこんで考察しているようにおもう。
とりあえずわたしが気になるというか難しい問題だとおもったのは、「誰でも、自分でも……」という想像力について「リベラルじゃない人は最初から納得しない」というところ。
玄田有史が「自分も一歩まちがえれば、ニートだったかもしれない」と言っているように、この「誰でも、自分でも……」という想像力の話はニートやひきこもり関連でもときどき出会う。そしてニートやひきこもりの場合でも、この想像力が「リベラルじゃない人」には通用しないというのが難しい問題だと個人的には感じている。
性暴力やニートやひきこもりだけでなく、いろんな場面で「誰でも、自分でも……」という想像力がどこまで通用するのか問題になっているのかもしれない。あるいは、それが問題だと感じているのはリベラリズムの立場に共感する者だけなのかもしれない。
ちなみに「入れ替え可能性」は、宮台真司がつかっていた表現だったとおもう。