「誰でも、自分でも……」という想像力はどこまで通用するのだろう

「誰でも、自分でも、加害者になりうる」のか(児童小銃、2005-01-02)
http://d.hatena.ne.jp/rna/20050102#p3

もちろん「誰でも、自分でも…」はリベラリズムの大原則(入れ替え可能性)ですが、観念的に納得するだけでは、現実の利害や素朴な道徳感情には逆らえないのではないかと。もちろんリベラルじゃない人は最初から納得しないし。

性暴力の加害者になるかもしれない(なったかもしれない)という想像力についての考察。引用元では、リベラリズムに立脚する者の葛藤についてかなりつっこんで考察しているようにおもう。

とりあえずわたしが気になるというか難しい問題だとおもったのは、「誰でも、自分でも……」という想像力について「リベラルじゃない人は最初から納得しない」というところ。

玄田有史が「自分も一歩まちがえれば、ニートだったかもしれない」と言っているように、この「誰でも、自分でも……」という想像力の話はニートやひきこもり関連でもときどき出会う。そしてニートやひきこもりの場合でも、この想像力が「リベラルじゃない人」には通用しないというのが難しい問題だと個人的には感じている。

性暴力やニートやひきこもりだけでなく、いろんな場面で「誰でも、自分でも……」という想像力がどこまで通用するのか問題になっているのかもしれない。あるいは、それが問題だと感じているのはリベラリズムの立場に共感する者だけなのかもしれない。

ちなみに「入れ替え可能性」は、宮台真司がつかっていた表現だったとおもう。