留年、学歴、コネ

留年サークルの存在(「留年者の日々」、2004-12-12)
http://blog.livedoor.jp/hook1214/archives/10664377.html

もう一つ、この手のサイトやブログを作っている人間は、なぜか自身が高学歴であることが多い。
京大で多留してる、東大目指してる、早稲田8留、僕は名大で、留年天国も国立大学だ。
知らず知らずのうちに安っぽいプライドでも持ってしまっているのだろうか?
確かに僕自身も他人に頼み事をするのが苦手だ。
何かと全て自分の力で片付けようと考える傾向にある。

ネットやブログはある種のタイプのひとには居心地がいいのだろうなあとおもう。
学歴と留年の関係については、本人のパーソナリティだけでなく、いわゆる高学歴の子をもつ親の意識というのも気になる(高学歴の大学に入学した子をもつ親は子の留年を容認する傾向があるのかどうか、など)。

本人のパーソナリティについては、たとえば一昔前の宮台真司だったらつぎのような分析をする。

特集:シンポジウム「高校生は今!」(神奈川県高等学校教育会館・教育研究所誌『ねざす』21号、1998年4月発行)
http://www.edu-kana.com/kenkyu/nezasu/no21/sinpo3.html

つまり東大や早稲田や慶応にいる、あるいは都立大にいるということは一生懸命受験勉強やってきたということの証であるわけです。逆に言えば、コストをかけている以上機会費用が生じてるんですね。受験勉強に使う時間を別のことに使っていればできたはずのことを失っているわけです。
(中略)
 ところが、そのコストをかけていい大学に入って来た連中の中には、まさにそこで失ってしまったものが多いという意識を持った人が大勢おります。それでもバブル崩壊まではですね、「いや、コストをかけた分の実りは将来返ってくる」とか思えたわけでありますが、それがなくなりました。つまり、失楽園オヤジと同じ状況なんですね。あると思ったものがないということに気が付いてきたときに、非常に不安が増大してまして、僕が非常勤やったりしますと、もうすぐに、質問といっても結局身の上相談なんですね。「宮台さんのおっしゃったように、僕は地方県立高出身で、いろんなものを犠牲にしてきましたが、僕はこれからどうやって生きていったらいいんでしょう」っていう、いきなりそこに話が落ちるんですね。

留年者はいろんな悩みをかかえているが、やはり大学に学籍があるということはなんらかの意味で精神的なよりどころになっているとおもう。また、どこにも所属する場所がない者よりは、周囲の人間からの協力を得やすい状況にあるひとがおおいようにもおもう。

ちょっと毒を吐いてみる(Dumb、2004-12-07)
http://dumb.s54.xrea.com/impressions/20041207_1113.html

「読者家のひきこもりの人は良い抜け出し方をする」に対して、信念を持ってひきこもってるからだなんて言ったけど、当然インテリ層は学歴があったり、コネがあったりするから、就職し易かったり、良い仕事(良い仕事って何とか聞かないでね)に付けたりするから良い抜け方をしたりするんだろうな。*1

コネや人間関係があるかどうかによって人生が左右されるのは確かだとおもう。とくに自分の力では身動きがとれなくなって社会から退却してしまっている当事者の場合、周囲の人間から協力が得られない状況だと「抜け出し」はいっそう難しくなるのではないだろうか。

*1:このエントリーは引用部分だけでなく、左翼ぎらいのじゅげむじゅげむさんがマルクス主義的ひきこもり論とよべるような発想を「(追記)」などで披露しているのも興味ぶかい。