〈当事者学〉=〈当事者〉の語り?

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

以前 id:matuwa:20040408#p1 で「小熊研究会OGの不登校経験者の方が、現在「当事者による不登校論」をテーマに東京大学大学院で研究中」と書いたけれど、その「不登校経験者の方」がおそらく本書の著者なのだとおもう。

新曜社のサイトには、つぎのような本書の紹介文が掲載されている。
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0927-X.htm

◆〈当事者〉にとっての不登校とは?◆
不登校(登校拒否)は主に二つの物語によって語られてきました。子供は学校に行くべきであり、不登校は「病理・逸脱」であるとするものと、学校に行く行かないは自分で「選択」できるというものです。長い不登校の後復学して、現在大学院で社会学を専攻する著者は、不登校をめぐるこの「病理・逸脱」と「選択」の物語になじめず、同じ不登校を経験した人たちへのインタビューを通して、これらのわかりやすい物語から漏れ落ちてしまう「ノイズ」を丹念に拾い集めて、〈当事者〉にとって不登校とは何だったのか、そして現在何であるのか、を言語化します。〈当事者学〉の新しい展開を示す力作です。

わたしは本書を読んでいないのだけれど、不登校をめぐる「病理・逸脱」あるいは「選択」というわかりやすい物語の二者択一になじめなかったという著者の実感というか問題提起はオモシロイとおもった。そこで当事者の語りですよ、というのが著者の選んだ方法のようだけれど、それが「〈当事者学〉の新しい展開」であるかどうかについては意見がわかれそう。関係ないけれど〈当事者〉とか〈当事者学〉とか“〈 ”や“ 〉”にはどんな意味があるのだろう……。

個人的には「当事者学」といわれても、学者の前では当事者の顔をして、当事者の前では学者の顔をする……こんな「当事者」と「学者」というふたつの顔のつかいわけにしか感じられなかったりする。本書の著者が、そのようなふたつの顔のつかいわけとはちがった「当事者学」を展開しているのか気になる(関連:id:matuwa:20040504#p2)。

年明けには理論社からも本書の著者の本がでるようです。
http://www.rironsha.co.jp/special/series/series01.html#no07

2005.1 『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』 貴戸理恵常野雄次郎
   「不登校は病気じゃない、自分で選んだんだ。」そう言った瞬間にこぼれ落ちていく本当の気持ちと背負わされていく責任、見えなくなる現実。もと小学校不登校者である若き研究者と、もと明るい不登校エリートが、不登校ハッピーエンド説を蹴散らし、リアルなことばをさぐる。

これは中学生以上が対象の新書シリーズのうちの一冊のようで、ほかにも玄田有史『14歳からの仕事道(しごとみち)』や小熊英二『日本という国』などが出版予定になっていますね。

追記(2004-12-04)

不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』著者のひとりで「もと明るい不登校エリート」こと常野雄次郎さんは、はてなダイアリー「(元)登校拒否系」のid:toledさんだったようです。「東京シューレOB」らしい。