『当事者主権』

中西正司・上野千鶴子『当事者主権』岩波新書ISBN:4004308607

上山和樹さん(id:ueyamakzk)が日記で何度かとりあげていたこともあり、気になっていた本。id:ueyamakzkさんのほかにも、わたしの知るかぎり、はてなダイアリーではid:kenbousyou:20031110さん、id:sarutoru:20040316さんが本書をとりあげています。

著者のふたりは、中西さんが障害者運動、上野さんが女性運動という当事者運動の現場にいます。とくに障害者運動は、障害者の権利擁護を実現する「運動体」と介助サービスなどを提供する「事業体」を結合した先駆的な組織として自立支援センターをうみだした。自立支援センターのような運動体と事業体の統一による当事者主権の徹底から、ひきこもり当事者が学び取るものはないだろうか……上山さんはこのように問題提起されているようにみえます。

わたしが本書を読むまえに感じていた疑問点は、つぎの2点。

1点目、ひきこもり当事者にとっての当事者運動を考えたとき、障害者運動や女性運動は参考にならないのではないかという疑問。障害者運動や女性運動は社会参加をめざしている。しかし、ひきこもり当事者は、社会参加とは正反対の「社会退却」のほうを向いた状態にある。このような状態のなかで、ひきこもり当事者が「当事者主権」に安易に飛びついてしまうと、その「当事者主権」が〈自分で自発的にひきこもりを選び取ったのだから自己責任でなんとかしてくださいね〉という「自己責任論」として読みかえられてしまう可能性はないだろうか。そのような可能性があるなら、社会から退却しているひきこもり当事者が障害者運動や女性運動とおなじような当事者運動をめざすことは、ひきこもり当事者が自分で自分の首をしめることになりかねないのではないか。

2点目、「当事者主権」といっても、当事者は一枚岩ではないだろうという疑問。たとえば「ひきこもり当事者」といっても、個々のひきこもり当事者の状況はちがっているから「ひきこもり当事者」は一枚岩ではないし、当事者が求めているモノにもちがいがある。おなじように当事者としての「障害者」や「女性」といってもそれは一枚岩なものではなく、個々の当事者の状況や要求はちがっているようにおもう。だから、そのような当事者の状況や要求のちがいについて障害者運動や女性運動はどのように対処してきたのか、そこに関心があった。

これらの疑問について、本書を読んでわかったことや、わからなかったことを書いてみます。

1点目の疑問については、障害者運動でも最初から当事者が自発的に社会参加することを想定しているわけではなく、社会参加する当事者というものが自立生活プログラムによって養成されていることがわかった。このように社会参加への動機づけもふくめての当事者運動であれば、ひきこもり当事者にとっても参考になる(社会参加への動機づけの困難という問題はのこるが)。

長いあいだ施設や在宅で保護と管理のもとにあった障害者は、失敗から学ぶ経験を奪われ、主体性を持たない子どもや患者のように扱われ、しだいに家族や職員に依存的になり、前向きにチャレンジして生きていく意欲を失っていく状況に陥っていた。(35ページ)

このような、いわば社会退却の状態にある障害者に対して介助サービスだけを提供すると、介助サービスの利用者は依存的になる。そのため、自立生活センターでは、介助サービスと並行して自立生活プログラムというものを提供している。自立生活プログラムとは、自立生活センターにある自立生活体験室で宿泊体験を何度もくりかえすことによって、親や施設から離れて長期的に自立生活ができる自信をふかめていくことができるようになっているプログラムである。

自立生活プログラムでは、親や施設から出て地域で自立生活をする時に必要な生活技術を、先輩の障害者が後輩の障害者におしえていく。自分たちの生活経験や知識をおなじ障害をもつ仲間に伝えられる当事者こそが自立生活の最良の教師なのである。また、すでに自立生活をおくっている当事者は、これから自立生活をはじめようとする当事者にとってのロールモデルでもある。このような当事者どうしの関係を制度化すると、それがピアカウンセリングになる。

自立生活センターは、ピアカウンセリング講座を通じて障害者自身をピアカウンセラーとして育成している。このようなピアカウンセラー育成のメリットのひとつに、臨床心理士などのカウンセリングの専門家が自立生活支援事業へ参入することをふせぐ点があげられている。専門家の参入を阻止することがメリットであること、これは当事者主権=自己決定権という思想にもとづいている。つまり臨床心理士や医師といった専門家のパターナリズムによって当事者の自己決定権がおびやかされることを警戒しているのだ。

しかし、先輩の当事者によるピアカウンセリングであれば当事者の自己決定権が尊重されるのは本当だろうか。障害者は自立支援センターが提供する自立生活プログラムを通じて「自立生活をめざす当事者」になる。では、このとき家族や施設に依存している障害者に対してピアカウンセラーが自立生活をすすめることはパターナリズムにはならないのだろうか。当事者の自己決定権の尊重という観点からみた場合、臨床心理士や医師といった専門家によるパターナリズムと当事者によるピアカウンセリングのちがいは程度の差にすぎないのではないか。この「程度の差」こそが大切であると考えることもできるのだけれど。

ここで2点目の疑問である「当事者といっても一枚岩ではないのでは?」につきあたる。本書では当事者主権を当事者の自己決定権とみなしているが、これは専門家に対抗する思想であり運動である。このような当事者主権論を展開するために、本書では当事者と専門家の関係を「当事者 vs 専門家」と単純化している。この「当事者 vs 専門家」という構図のなかでは、どうしても当事者というものが一枚岩の当事者として(専門家も一枚岩の専門家として)描かれがちになる。たとえば、本書で紹介されている自立支援センターの活動が「自立生活をめざす当事者」という一枚岩の当事者像を前提とした運動にみえてしまう(運動とはそんなものだという見解もあるだろうが)。

この一枚岩の当事者像は、本書における「当事者学」の提唱でも感じる。当事者学とは、当事者の知を発信する自前の学問であり、これまでの専門知に対抗するものとされている。ひきこもりに関連するものとして、本書では元不登校の当事者たちがめざしている「不登校学」が紹介されている。不登校学は、これまでの教育学や発達心理学の専門家による解釈に異議をとなえ対抗するものである。しかし不登校経験者であれば当事者の代弁ができるという主張からは、やはり個々の当事者の状況のちがいを切り捨てた一枚岩の当事者像というものを感じてしまう。

本書に「当事者 vs 専門家」という構図がくりかえし登場するのには、それなりの理由がある。とくに障害者の世界では、専門家による治療方針の押しつけや施設収容といった専門家主義の影響がつよかった。そのような専門家主義に対して障害者団体が専門家支配に対抗してきた歴史がある。当事者運動とは「当事者 vs 専門家」という力関係をめぐる運動なのだ。しかし本書を読んで感じるのは、当事者主権を専門家のパターナリズムに対抗する自己決定権として定義するときに前提とされる「一枚岩の当事者」に対する違和感である。では、自己決定権にかわる当事者主権の定義にどんなものがあるのか問われると、返答にこまってしまうのだけれども……。

当事者主権とは当事者の世界を豊かにするものでなければならないだろう──現時点では、こんな漠然としたことを考えるのが、わたしの精一杯。たとえば事業体としての自立支援センターは、障害によって当事者の生活ニーズが異なることを前提に、さまざまなニーズに対応したサービスを提供している。このような自立支援センターの事業は、障害をもった当事者ひとりひとりの世界を豊かにする活動であるといえる。そしてこのような当事者の世界を豊かにする活動は、かならずしも専門家を排除して当事者だけで実現しなければならないという理由はない。ひきこもり業界には、すでに精神科医臨床心理士精神保健福祉士といった専門家が参入している。そのような専門家の存在を受け入れたうえで当事者主権をどのように実現していくのか、これがひきこもり当事者に問われているようにおもう。

えっ? 専門家の存在を受け入れた場合、専門家のパターナリズムが気になるって? やっぱりそうですか、そうですよね……。でも、専門家のパターナリズムを警戒するのならば、おせっかいな当事者によるパターナリズムの可能性についても意識しておいたほうがバランスがよさそうだと個人的には感じてしまうのですが……。まあ、いろんな当事者がいるのだから、みんなが納得できるような「当事者主権」の思想を提示するのは難しいです。

いくつか違和感を指摘したけれど、本書の出版も当事者運動の一環なのだとかんがえれば、ポジティブなことしか書かれていないのは当然ともいえる。「全世界の当事者よ、連帯せよ」とのこと。うだうだ言わず、あえて動員されてみるのが吉かも。

(追記:id:matuwa:20040512#p2 で補足のようなものを書きました)。