パターナリズムと当事者主権

圏外からのひとこと(2004-03-29)「援助」と「断罪」の技術 を経由して、雨崎良未さんの EP end-point: ひきこもり vs 価値観 を知りました。

雨崎さんは町沢静夫『ひきこもる若者たち:「ひきこもり」の実態と処方箋』(ISBN:4479790810)と斎藤環『ひきこもり救出マニュアル』(ISBN:4569621147)を比較検討しています。町沢著=トップダウン、斎藤著=ボトムアップというのが雨崎さんの評価で、町沢著には「パターナリズムの匂い」がすると記しています。このパターナリズムという観点から雨崎さんの評価を図式にするならば、つぎのようになるでしょうか。

この評価図式をみて、ひきこもり業界ウォッチャーの方は「おや?」と感じるかもしれません。ひきこもり当事者に対する治療の是非については、いろんなところで斎藤環派と高岡健派の局地戦がみられるわけですが、そこでは「斎藤環=治療主義」と位置づけられているからです。この治療主義をパターナリズムとして読みかえるならば、斎藤組 vs 高岡組の仁義なき戦いをつぎのように図式化できそうです。

ここで「パターナリズム度」が数直線上で比較できるような尺度であると仮定するならば、パターナリズム度の比較(1)と(2)から、つぎの結論が得られます。

斎藤環=中道派になるわけですね(中道右派?それとも中道左派?)。

さて、なにが言いたいのかよくわからなくなってきましたが……。ひきこもり当事者にとって「当事者主権」とはどういうことなのか、いまこれが気になっています。しかし当事者主権をめぐって、たとえば斎藤環 vs 高岡健の代理戦争にもみられるような「治療主義 or 当事者主権」「パターナリズム or 当事者主権」といった二者択一による問いをたてることは、当事者主権にまつわる問題の複雑さを過度に単純化しているようにみえます。またそのような二者択一をせまることは、当事者の利益にもならない気がします。というわけで、たとえ「二枚舌」であろうと斎藤環=中道派の姿勢がベターなのかもしれないなあ、こんなことを感じたのでした。

──と、このように無理にまとめてみたけれど、高岡さんの「ひきこもり擁護論」だってそのような価値判断を共有しない当事者にとってはパターナリズムになってしまう可能性があるわけで、やっぱり当事者主権をめぐる問題は単純ではないということです。