新聞書評『ひきこもり文化論』

東京新聞』2004年3月14日朝刊に掲載された、斎藤環『ひきこもり文化論』紀伊國屋書店ISBN:4314009543)の書評を簡単に紹介します。評者は速水由紀子フリーライター)。

  • ひきこもりは病気ではなく、日本という特殊な文化が生み出したデスコミュニケーション再生産のシステム──これが斎藤氏の結論である。
  • 日本の人間関係を支えているのは「甘え」。この西欧にはない不思議な関係性を指摘したのは土居健郎だった。斎藤氏の慧眼は、家族の甘えあいからの脱落にひきこもりのルーツを見ている点にある。
  • 青春期に軽度のひきこもりを経験した評者は、この論が非常に的確だと評価する。甘えあいによって自我を補完しあう家族のなかで、子だけが甘えあいを拒否・放棄することがある。そうるすと子は家族システムから疎外される。このような甘えあいの拒否・放棄は、プライドの高さによる甘え下手に起因することが多いと斎藤氏は分析する。
  • 子が家族システムから外れることで家族に軋轢がおこり、さらにデスコミュニケーションが悪循環する。家族の感情的な甘えの失敗は「ひきこもり」という形態的な甘えへと移行し、さらに家族間で甘えあいの失敗をくりかえす、このように斎藤氏は指摘する。
  • 評者はつぎのように述べる。社会や企業には欧米の合理主義が流入しているにもかかわらず、家庭内は依然として「甘え」が支配している。両者を上手に行ったり来たりできることが日本的な大人となる「適応」条件ならば、ひきこもりはその両極に引き裂かれ身動きのとれなくなった状態なのかもしれないと。

速水さんはNHK BS-2「週間ブックレビュー」2004年2月29日放送分でも『ひきこもり文化論』を取りあげていたようです。わたしは『ひきこもり文化論』を読んでいないので速水さんの書評についてあれこれ言う資格はないのですが、この書評を読んで土居健郎夏目漱石論を連想しました。高等遊民とひきこもりの関連を指摘するのは「いまさら…」という気はするけれど、たとえば『それから』の主人公・代助についての以下の文章は、書評にあった「甘えあいからの脱落」としてのひきこもりの解説としても通用するとおもう(斎藤さんが土居健郎の「甘え」概念を借用してるのならば当然か)。

大体彼〔=代助〕は甘えん坊といわれる種類の人間ではなかった。むしろ、彼は社会や親を批判すればするだけ、普通人のごとくには社会や親に安易に甘えることはできなかった。それでもなおかつ彼はその批判の陰でひそかに甘えていたということだけなのである。そしてこの点が最も重要なのだが、彼はこの甘えがある故に、未だに社会や親から決定的には離反してはいなかった。いいかえれば甘えは彼の危険な精神的平衡を保つ唯一の安全弁であった。したがって悲劇は、彼にとって甘え以外に救いがなかったという点にこそ存在するということができるのである。(『土居健郎選集 7 文学と精神医学』ISBN:4000923978、52ページより)

『ひきこもり文化論』については2004年2月22日の『日本経済新聞』にも藤原智美による書評が掲載されていますが、まあ『日経新聞』朝刊は全国の図書館でも読めるので、だれか親切な方が紹介してくれるかもしれません……。