性愛以後について語らせていただきます

「性愛による承認」があちこちで話題になるけれど、性愛の場で承認が得られるかどうかは「縁」の問題だという気持ちが個人的にはあるので、一般論として「性愛による承認」について語ることはむずかしい気がします。そんなわけで論点をチョットずらして「性愛以後」について語らせていただきます。

とりあえず「性愛以後」なんて言葉をつかってみたけれど、ここではパートナーとの関係を継続すること、簡単に言えばいわゆる「つきあう」という意味です。

「つきあう」ことには、自分のもっている時間や金銭やエネルギーといったものをパートナーのためにつかわなければならないという側面があります。そして、この「パートナーのために」という部分で苦労するヒトがいるようにおもうのです。

ひきもこもりの状態では、自分のもっている時間や金銭やエネルギーをほとんど「自分のため」だけにつかっています。そして、べつにこれはひきこもり当事者・経験者に限定されないけれども、ながいあいだ自分のもっている時間や金銭やエネルギーを自分のためだけにつかってきたヒト、マイペースに生きてきた年月のながいヒトのなかには、いざ「つきあい」がはじまって「パートナーのために」時間や金銭やエネルギーをつかわなければならない状況がストレスになるようなヒトもいるのではないかとおもうのです。

ひょっとしたら、この「パートナーのために」というのは性愛におけるパートナーだけの話ではなく、自分のまわりのヒトたちのために時間や金銭やエネルギーをつかえるように自分のなかで折り合いをつけるという生活全般にわたることであって、これが社会生活や社会復帰というものなのかもしれない──わたしはこんなことをかんがえながら「http://oroshi.jugem.jp/」をいつも読んでいます。