自助グループの困難?

MSN-Mainichiの記事に自助グループらしきものが登場したので、ひきこもりと自助グループについて。

まずは、中西正司・上野千鶴子『当事者主権』(ISBN:4004308607)からの引用です。

障害者は一生障害を背負って生きる。当事者自身が支援者になれば、どんなことがあっても、そこから逃げ出すことはできない。逃げ出すことは、見捨てるということであり、次には自分が見捨てられる番になる。地域のなかで誰を信頼するのかと問われたときに、それは一番身近な地域に住んでいて、同じサービスのユーザーである障害者の仲間であろう。そういう仲間たちは、生きるうえで利害を共有する運命共同体といえる。(87ページ)

ピアカウンセリングのように当事者が当事者を支援するかたちで障害者の自立生活運動が展開されなければならない理由について、この文章はある種の説得力をもっている。障害者運動が当事者による当事者支援を重視しているのは、専門家のパターナリズムを排除するためだけではない。障害者は一生障害を背負って生きるのだから「運命共同体」を形成しているのであり、だから当事者同士の支援から逃げ出すことができない……障害者運動の場合、このような観点から「当事者主権」を意味づけすることも可能なのだ。

では、ひきこもり当事者は一生「ひきこもり」を背負って生きるのだろうか。ひきこもりの状態から脱したとき、当事者は「ひきこもり」というアイデンティティも脱ぎ捨ててしまうかもしれない。ひきこもり状態から抜け出した当事者は、自助グループをはじめとする当事者グループへの参加をやめてしまうかもしれない。そんなふうにかんがえると、ひきこもり当事者のグループに参加していても、自分にとってお手本になるような社会参加への道を歩きはじめている先輩の姿を目にする機会はすくないのかもしれない。

自助グループアルコール依存症の治療経験から誕生したわけですが、アルコール依存をはじめとする依存症当事者のグループの場合、そこにはある種の「運命共同体」が形成されているようにみえる。断酒会やAAなどの自助グループに参加しているアルコール依存症の当事者は、酒を飲まなくなったらアルコール依存症が治ったと考えることをやめて、一生「アルコール依存症」というアイデンティティを背負って生きることを受け入れる。このような一生にわたる当事者性を背負ったものが集まる「運命共同体」のなかでしか、自助グループやピアカウンセリングのような当事者による当事者支援は成立しないように感じる。

「専門家の存在を受け入れたうえで当事者主権をどのように実現していくのか、これがひきこもり当事者に問われているようにおもう」とid:matuwa:20040504#p2で書いた。ひきこもり当事者のなかには、「ひきこもり」というアイデンティティを一生背負い続けることを拒否するひともいるだろう。ひきこもりを状態像としてとらえるならば、いつでも脱ぎ捨てることができるアイデンティティとして「ひきこもり」をとらえることにも一理があるのだから。そして「ひきこもり」のようにかならずしも一生にわたって背負いつづけなくてもかまわないアイデンティティをもった当事者の場合、自助グループやピアカウンセリングといった当事者による当事者支援をうまく実行させていくことは困難なのではないか──このように感じたこともあり、専門家を排除したひきこもりの当事者主権は非現実的だと判断したのですが……これは、わたしの判断ミスでしょうか。