取材のリスク、ネットのリスク

ひきこもりの当事者グループといってもいろいろあるとおもうのですが、もしもそのようなグループに負の面があるとすれば、それはグループが受容的すぎる場合ではないでしょうか。グループの外の世界は当事者にとってかならずしも受容的ではありません。そのため、いったん受容的なグループになじんでしまうと、そのグループから外へでることが億劫になってしまう。援助団体の「抱え込み」という問題には、団体側の経済事情だけでなく、そのような当事者側の心理的要因も関連しているような気がします。

ここで突然『わかってほしいんや』の話になります。ひきこもり当事者がドキュメンタリーの取材を受けるということは、受容的でない外の世界へといきなり飛び出していくことに等しいようにおもいます。この場合の「受容的でない」とは、番組の視聴者からなにを言われるかわからない恐怖と背中あわせだということです。だから取材を受けるということはリスクがともなうし、非常に勇気のいることだとおもうのです。

では、どうして当事者は取材をうけたのか。取材を受けるリスクにきづいていなかったのでしょうか。それともテレビ局のスタッフにまんまとだまされたのでしょうか。

そうではないだろう、ネットで文章を公開されている方ならそう感じるはずです。ネットで文章を公開することにもリスクがともないます。文章の読み手はかならずしも受容的ではありません。自分の意図とはちがったリアクションがかえってくる場合もあれば、批判を受けることだってあります。それでも web で書くことを選んだのはなぜでしょう……。

いくら受容的なマナーを説いたとしてもリスクはなくなりません。いまやっていることはリスクをおかすだけの価値があることなのか、つねに自戒が必要なのかもしれません。

とはいうものの、きちんとリスク評価できる人間ならひきこもったりしなかったよなあ、自分自身についてはこのようにおもう、きょうこのごろ。なんだかよくわからない文章でした、われながら。